自分の為のメモ

吐き出すブログ

おかあさんの歌詞

 

未だ体調は安定せず。

でもどうにかしなくちゃいけなくて、色々と足掻いているこの頃。

 

今話題の「あたしおかあさんだから」という歌詞を読んで、ふと私の母のことを思った。

私の母は今も不眠症パニック障害に悩まされている。その原因は、母が「お母さん」だったからだ。

 

当時、私は何も知らない子供だった。

私の地元は給食制度が進んでおらず、小学生の頃からずっとお弁当だった。

お弁当が毎日用意されていることに何の違和感も感じなかった。

帰ればお菓子を作って待ってくれている母に何の違和感も感じなかった。

体操服袋やお弁当袋が手作りなことに何の違和感も感じなかった。

庭の花壇が綺麗に花で埋め尽くされ、自慢の可愛いお庭だったことに何の違和感も感じなかった。

 

母は、21歳で結婚し、23歳の時にはもう私を産んでいた。その後、妹が産まれて直ぐに父の地元、今住んでいる場所へと連れられた。

地元は田舎で、車がないと移動ができない。母はペーパードライバーだったが、必死に車に慣れようとした。

知り合いなんか周りには誰もいない、知らない土地。そこで、若い母は近所の人や性格の悪い祖父に嫌味やありもしない噂話までたてられた。近所に住む祖父は度々母を罵った。父は祖父が怖くて庇ってくれなかった。

 

それでも、毎朝早く起きてお弁当を用意して、私と妹を起こして学校へと連れ出し、毎日洗濯物を干して掃除機もかけて庭も整備して、縫い物だってして、お菓子も作ってくれた。母は、懸命に「お母さん」であろうとしたのだ。

 

母は、うまれつき足が悪い。あの頃は足が痛い、と口に出すことはあまりなかったように思う。言ってはいけないと思っていたのかもしれない。何故なら、言えば子供である私たちが心配するからだ。

 

そんな時、父がうつ病になり休職してしまった。母は足りない分を、給料が安く自分で車で取りに行ってまた倉庫に持っていくというなんとも不便すぎる内職で何とか賄おうと、毎日内職の箱を折ったり袋に詰めたりしていた。

(後にも言うが、母は足が悪い為立ち仕事はできなかった。だが、田舎のここに座り仕事は殆ど無い。事務のスキルもない。内職もその安く不便なものしか無かった。)

 

父がうつ病になって直ぐ、妹も体調を崩した。自家中毒になり、臭いが駄目だと家から飛び出して車に閉じこもる日もあった。学校にもなかなかいけず、不登校の日が続いた。

それでも母は妹を懸命に支え、学校の前まで一緒に行ってみたり送り迎えを毎日したりしていた。

当時中学生だった私は、そんな父と妹の姿に耐えられず、私自身も体調を崩す日が多くなった。自分の方に関してはあまり思い出せないが、母はやっぱり優しかった様に思う。

 

そんな日々の一方、父方の祖母が癌になった。余命2年と言われていた命は、5年程続いた様に思う。だが、その5年はあまりにも長く辛いものだった。

祖父に毎月見舞いに行けと言われ、私たちは片道1時間半の道のりを走り家族全員で見舞いに行った。祖母は行くたびにもう嫌だ痛いしんどいと泣きそうな声で言っていた様に思う。

そんな祖母に祖父は怒鳴り、差別用語で祖母を貶め、「俺の飯はどうなる」と己の心配ばかりしていた記憶がある。

そんな日々が何年も続いた。祖父は母にも怒鳴りの電話を入れた。見舞いに何故来ない、車を出せ、一人で見舞いに行け、……他にも何を言われたのかは、私は本人ではないから知らない。

だが、その電話がきっかけで、母は壊れてしまった。

 

今迄完璧であろうとした母はある日突然泣き崩れ、父に初めて大声で喚き訴えた。私は妹の耳を咄嗟に塞いだことを覚えている。自分がどんなに大変か。もう嫌だ。辛い。帰りたい。それは今まで言わなかった言葉。「お母さん」が言ってはいけない言葉。

それから母は「お母さん」を少しずつやめていった。お弁当は作らなくなり、洗濯物は干さなくなった。掃除機の音もしない。庭の花は枯れていたし、帰れば洗われていない食器が沢山あった。

中学生の私と小学生の妹は、それがどういう意味なのかはっきりわかっていなかった。ただ、母が疲れていること、足が痛いこと、しんどいことだけを理解していた。

 

父は仕事場を変え、薬を飲みながらも仕事に復帰した。祖母は長い闘病生活の末、亡くなった。私は高校生に上がり、妹は中学生になった。

これから何もかもが良くなるかと思ったが、家族の傷痕は思ったよりも深かった。

私は朝がうまく起きられず、母に送ってもらわないと学校に行けない日が多かった。母はしんどいと言いながらも、私を懸命に送ってくれて、いつも笑ってくれていた。

妹は小学生の頃の体調不良が治らず、教室ではない場所で勉強をしていた。だが、勉強もついて行けず、やはり不登校気味になっていった。

母は病院でパニック障がいと軽度な拒食症、睡眠障害を診断された。当時の母は痩せこけていたように思う。あの頃の写真はほとんど残っていない。

 

そうして、母は少しずつじわりと壊れていっていた。

「お母さん」であらなければ、と懸命になりすぎた。我慢しすぎたのだ。「お母さんだから」は、「お姉ちゃんだから」に似ている。"〜だから、こうしなければならない" と自分を責めてしまう。

私は隣県の大学に進学したが、うまく体調のコントロールができず単位ギリギリで半年を過ごした。中学生の頃一度だけ行った個人病院で、自律神経失調症及び軽鬱だと診断されたものが、治りきってなかったのだろうと今は思う。そして慣れない場所での初バイト先でも色々あり、結局私は駄目になってしまい休学をすることにした。その半年後、金銭面や体調面の都合で私は退学した。

 

帰って知ったのは、母がまだまだ壊れていっていたということだった。

母は家事を全くしなくなっていた。魔除けのグッズが大量に家にあった。通販で買ったもので家は溢れかえっていた。所謂通販依存に母はなっていた。

それまで母は欲しいものがあっても我慢していた。病院代のかかる私の為、妹の為にと何もかも我慢していた。

それが、こんな形で溢れてしまったのだ。

その後も母は「私はお母さんじゃない」と度々言うようになった。その言葉は、今でも私の中に深く残っている。

 

「お母さん」という一つの固定観念に縛られ続けた母は、結局壊れてしまった。

もしあの時、祖父から怒鳴られて直ぐに心のケアのために実家に戻っていれば。

もしあの時、母という仕事を放棄して病院に直ぐ行っていれば。

もしあの時、「お母さん」に拘らず、自分ができる範囲で自分の為に生きていられたなら。

 

私は偶に、私がいなければ母は自由に生きていけたのではないか、と思ってしまう。母は少し変わったところはあれど、元々人に好かれやすく明るい性格だ。きっと、他にもっと道は沢山あっただろう。

それが、「お母さんだから」によって壊されてしまったようにしか私には思えない。

 

母は今は少し落ち着いて、新しい仕事も始めようと頑張っている。いいや、必死になっている。まるで、取り戻せない時間を取り戻そうとしているかのように。

今は家庭の状況が良くない。父はまだ服薬中だし、借金はあるし、妹は高機能自閉症(ADHD)だと診断されたし、私はつい数ヶ月前に突然心が折れてしまった。

 

私も母も焦っている。

私は早く体調を戻さなきゃと思う一方で、全てを捨ててしまいたくなる。今後引きこもりの妹を養うことも、両親の老後を支えられる自信も、私にはない。自殺も何度も考えた。病院に行き、今は何とか落ち着いているが、またいつ死にたくなるのかわからない。

母は今も祖父に関わらないようにしている。祖父のことを思い出すだけで手が震えてしまう。そんな自分が嫌で、お金が大変だからと、自分を変えるための仕事を何とか見つけようとしている。だが先ほども言ったが、ここは田舎で、足が痛い母は長時間立つ仕事ができない。早くに結婚した為仕事のスキルもない。それは母にとって酷く高い壁なのだろうと私は思う。

 

口の悪い祖父は今だに健在で、毎週日曜は父に車を出してもらい買い物に行っている。それどころか、毎日仕事帰りに父が顔を出さないと怒りの電話がかかってくるのだ。私はもう正直呆れ返っている。そして、父を不憫に思う。

 

父が診断されたのはうつ病だけだったが、今彼を見ると妹の症状に似た動作がよく見られる。私が行っている病院とは違う個人病院に行っている為、真偽はわからないが、妹のADHDは遺伝性のものである可能性もあるという。だがそれは本人がまず気付くべきだと思うし、憶測でものを言うことは良くないことだ。だが、それでも私は、そのことに気付いてやっと心の中で私の家族の「理由」に整理をつけてしまった。

 

 

周りに自然と強制されたものは、いつか壊れてしまう。勿論朝5時に起きて爪を切って子供の為に我慢する「お母さん」がいても何もそれは問題ではない。

だが、それがそれこそが「お母さん」なのだと決めつけることはあまりにも不幸なことだと思う。

「お母さん」じゃないと周りから認められない、という風習はもう現代の日本社会には合わない。これが「お母さん」だと声高らかに言われることは大変不愉快であり、私のトラウマでもある。

私がもう少し理解のある子供であれば、「お母さん」に我慢なんてさせなかったのに。と、どうしても思ってしまうのだ。母が我慢の末に壊れてしまったなら、私にもその責任はある。私のせいで、母は壊れてしまったのかもしれない。そんな思いがふつふつと湧いて出てしまう。

 

私は今年で22歳になる。はやく自立したい反面、体調はなかなか思うようにいかない。一度壊れてしまったものは修復に時間がかかる。壊れるときは一瞬だ。たまったものが吹き出すように、爆発するように、土台から壊れてしまう。

だが、それでも私は生きようと今は思えている。数ヶ月前、1ヶ月前、死にたいと何度も願い何度も死のうとした。今だって気分はとても辛い。

気分転換が気分転換じゃなくなって行き、何をするのも億劫になる日も多々あった。

家族は大切だが、家族が私をゆるく縛り続けているのもわかっている。大切なものはいつだって重たい。

母も同じだったのだろう。「お母さん」として抱えたものは重すぎた。一人の人間として抱えれば、もう少し軽かったかもしれない。母は周りを頼らなかった。お母さんだから当たり前、と己を縛ってしまった。

 

お母さんだから、お姉ちゃんだから、お父さんだから、妹だから、男だから女だから……

周りや社会における「〜だから、しなくてはいけない(こうあるべきだ)」という一種の固執は度が過ぎれば身を滅ぼし周りも壊していく。

自身の心の中で「〜だから、こうしよう(こうした方が良い)」と考えるのが一番良いと私は思う。

自分のできる範囲で自分の決めたことをする。自分のできない範囲にあることは一人では絶対にしない。

辛いなら誰かを頼らなくてはいけない。吐き出さなくてはいけない。〜だから当たり前、だなんて誰が決めたのだろうか。当たり前なんて人によって違うに決まっている。得意不得意、精神の強さ、体力、健康面、好き嫌いも、全部違う個性があるのが人間なのだ。当てはめればそれに耐えられない人は壊れてしまうに決まっている。

 

最後に、「あたしおかあさんだから」という歌詞を書いた作家さんは、言葉足らずなのだろうと私は思う。

確かにこういう「お母さん」はいるし、それをこなすことを誇りに思っている人だって多々いる。そんな彼女たちへの応援ソングだと作家さんは言っていた。

だが、それをさも全てのお母さんにとって当たり前、と取れる言葉で歌詞を紡いだのが悪かった。

誰かにとっての当たり前は誰かにとっては当たり前ではない。寧ろ、とても辛いものかもしれないし、逆にとても楽なものかもしれない。

それを私は、今後も胸にしっかりと刻みつけておきたいと思う。