自分の為のメモ

吐き出すブログ

10月15日

 

何度目かわからない「死にたい」という感情が大きく浮上したので、書き残していきたい。

 

ブログを始めた理由は、上記に示した通りだ。

 

死にたい気持ちを吐き出す場所が私にはない。ネットを頼りにして、私は一度知恵袋に投稿した。然し、直ぐに取り下げた。別に回答を望んでいるわけではなかったからだ。

次に、悩みの相談掲示板を覗いた。だが、そのどれもが私の思っているものではないと感じた。それでも誰かに吐き出したくて、辛くて、フォームに入力してはコピーして消してまたペーストしてを繰り返した。

だが、やはり投稿する気にはなれず、私はそっとその文章をメモ帳にコピーした。

 

悩みがあまりにも長文だったこともある。それを誰かに読ませるのは酷く恐ろしいと思った。だが、やはり誰かに吐き出したい。見知らぬ誰かでいい。共感してくれなくていい。答えなんかいらない。

ただ死にたい気持ちを吐き出したい。

だから、Googleで「死にたい」と検索して直ぐ出てくるサイトの一つであるこのブログを選んだのだ。

 

ここからは、そのコピーペーストした死にたい気待ちをブログらしく書き直したものだ。

長くて暗くて読む必要は全くない。

単なる私の日記でしかない。

 

 

私は今21歳のフリーターの女だ。

高校を単位ギリギリで卒業して、大学に入ったはいいものの、体調は良くならず悪化するばかりで、私は中退という形で公式の王道の正常な普通の「道」から外れた。


今は実家暮らしをしているが、うまく自律神経のコントロールができず体調不良が続き、春の終わり頃に週5日5時間働いていたパートを辞めた。

無職の肩書きは楽だった。体調が悪くて横になっていても焦りがない。気分が悪くて寝坊してもいい。熱を出しても寝ていられる。私にはありがたいものだった。


然し、実家は今身内の通販依存症による借金が重なり、金銭的に困窮している。

身内の通販依存症は本人も自覚しているし、理由も理解できないものではない。今まで自由を得ていなかった人間が、封じ込めていた欲を爆発させてしまうのは仕方のないことだと思う。だから、私には責める権利がない。

そもそも身内を今まで縛っていたのは私だ。私を育ててくれた。育ててくれていた時間は、身内にとっては監禁の様に縛られたものだっただろう。

 

身内の話は置いておくとして。

流石にこのままではいけないと思い、私は自立の一歩として、田舎での「足」を得るために貯めたお金で免許を取りにいった。

無事免許は取れた。
しかし、私たち一家は他所から引っ越してきた事で今の地域に馴染めず、駐車場(他所様の土地)を借りるツテも無く、車は断念することになった。

この時、最初にそう考えていればよかったのだ。ツテなんてあるわけがない、と。車を持てないのに免許を取って、無駄に借金を背負っただけなのだと。


仕方なく私は原付を買った。それで活動範囲を広げようと思ったからだ。

だが、私の体が弱い為、雨の日にスクーターで外出するのはやめろと身内に言われ、買った原付も殆ど使っていない。

この歳で身内のいいなりになる方がおかしいのだが、実際私は雨に濡れると直ぐに熱を出す程体が弱い。先ほども言ったが、高校を単位ギリギリで卒業して大学も続けられない様な人間だ。


話は少し変わり、今月に入って金銭関係が厳しくなり、先日ようやく新しくパートを始めた。だが、先ほども言ったが、21歳で親に送り迎えをして貰うというなんとも言えない事実が私にのしかかる。田舎だから仕方がない、私が弱いから仕方がない、そう思いつつも私にとってそれは耐え難いものだった。
始めた新しいパートも、初出勤日に小さなミスをやらかしてしまい、もう既にやっていけるかわからず、不安で堪らなくて怖くて泣きそうになった。

送り迎えをしてやると言ってくれる親の気持ちもわかる。弱い私をとても大切にしてくれているんだと感じる。

正社員でもない7時間勤務のパートで辛くて泣きそうになっている自分はとてもじゃないが、元気で強いとは言えない。

研修(試用)期間の1ヶ月の間で本当に辛いと感じたなら辞めればいいと身内の一人は言ってくれる。だが、金銭のことを考えるととてもじゃないが辞められない。現に、借金を背負っている身内は辞めればいいとは言わない。当たり前だが。
パートなんだから辞めて新しい職を探せばいい、と私だって少しは思った。だが此処は狭い場所、田舎だ。仕事だって少ない。給料なんか正社員でも平均13万や14万だ。この2ヶ月、正社員の面接もいくつか落ちた。自分に何ができるのかわからないし、何をしてもダメな気がする。

もしかすると、都会なら沢山仕事があるかもしれない。だが、都会に出て今の精神状態で一人で生きていける自信は、これっぽっちも、かけらも、ない。

 

精神科に行くことも考えた。

私の身内は、うつ病パニック障害に不安症に不登校と皆心に病を持っている。こころの病院に通っていないのは私だけだ。だが、全員8年程通っているのに、治っているようには全く見えず、それを見ていると行っても無駄なんじゃないか、と思ってしまう。薬がバカみたいに高いのも知っている。それを見て、行く気になるだろうか?
病院次第では?とも思った。だが、狭い場所なので存在する病院も限られる。現に私の住んでいる町には精神科も心療内科もない。職場のある隣町まで行かなくてはいけない。

まぁ、何より今は通うお金がないから行けないのだが。

 

毎日毎日死を考えてしまう。
勿論、自殺が、色んな方に迷惑をかけて周りの心を傷つけてお金だってかかって、最低な行為だとは私だって承知している。

だけれど、死にたいと考えてしまう。

命は重い。重すぎて、投げだしたいと、気をぬくとふと思ってしまう。
息をするのが、とてもしんどい。

胃が苦しい。

夜目を閉じるのが怖い。

朝目を開けるのが恐ろしい。
今では、ここまで生きてきた己の判断が全て間違っていたと思う。何をしても間違っている気がしてならない。

毎日どうして皆は生きてるんだろうか。どうやって生きているのだろうか。


世の中には私を、甘えだと判断する人もいる。かと思えば、精神科に行った方がいいと判断する人もいる。どちらの判断も誰かにとっては正しく誰かにとっては誤ちだと私は思う。

人は皆色んな悩みや苦しみを抱えて生きているとわかっている。私はそれをうまく自分の中で整理できない落ちこぼれなのだ。


趣味の絵を描く事も小説を書く事も、うまくいかない。かいても楽しくないし、長く続かない。それはもう趣味ではない。


身内たちの精神的疾患の原因となった祖父を何度も恨んだ。死んでほしいと何度も思った。

私を産んでくれた両親を恨むという最低な行為も何度もした。

生まれてしまった自分を恨んだ。

不登校で引きこもっている妹を恨んで悔やんで己を責めた。
でも、誰も悪くない。

私が弱いだけの話だった。

 

怖い。

死ぬのは恐ろしく感じる。私よりももっともっと辛い方々が必死に生きている中、こんな悩みで死にたいと考える己は最低だと重々理解している。
人と比べてはいけないとわかっている。己が己の中でどうあるかが一番大事だ。周りと同じことができなくても、辛くても、誰よりもまず己の為に生きるべきだと思う。
だが、社会は周りと同じを求める。同じでなければ生きる為の権利が剥奪される。金銭的にも、社会的にも。


私には親しい人は家族以外にはいない。誘ってくれる友人はいるが、こんなことを話せる間柄ではない。遊ぶのも辛い。恋人だっていない。
でも、それでいいと思っている。依存されても、依存しても、辛いだけなのだ。

 

死ぬことは生きることよりも難しい。生きることは死ぬことよりも簡単だ。耐えればいいのだから。

それでも、死を選びたいと思う私は、どうやって己と向き合えば良いのだろうか。

 

はたして私は、本当に生きているのだろうか。