自分の為のメモ

吐き出すブログ

祖父の話

 

今日も体調が悪い。しなくてはいけないことができないことが、堪らなく辛い。

昨日も散々だった。私が悪いのだけれど。

 

そんな昨日、祖父が入院した。

命に関わることではないが、念の為に入院した形だ。

祖父が入院したと聞いた時、最初に出て来た感情は「喜び」だった。それはとても醜く、ひどく非情な喜びだ。誰かの病を喜ぶことは自分にとって良くないことであり、持ちたくない感情だ。

だが、私は確かに喜んでしまった。

あぁ、やっと終わるんだ、と。

 

祖父、私の父の父はとても頑固な人だ。否、彼を頑固というには頑固という言葉に失礼かもしれない。

彼は、自分の事しか考えられない可哀相な人だ。自己中心。攻撃的。排他的。

私がまだ幼稚園に入る前の頃、私と母と生まれて3ヶ月の妹は、突然父の地元に連れてこられた。理由は、祖父だ。

父は長男であり、長男が祖父の面倒を見るのは「当たり前」なのが、田舎の地元の風習だ。だから、父は家族を連れて祖父の元へと帰った。

私はその頃の記憶は残念ながら保持していないが、母は何度も私に教えてくれた。

帰ってきた息子家族を見た第一声が「まだ帰って来なくて良かった」だったこと。その癖毎週のように呼び出しては用事をさせられていたこと。赤ん坊の妹が泣くと「うるさい!泣かせるな!」と怒鳴り散らしていたこと。私が走り回って遊べば「走り回るな」と怒鳴って怒られたこと。「子供は嫌いだから面倒は見ない」と言われたこと。

 

祖父は、王様だった。

祖母は祖父に怒鳴られることを恐れ、何も言わなかったし、それは父も同じだった。

祖母に差別用語で罵っていることを何度か見たことがある。父はやんわりと怒っていたが、それに対しても怒っていたのを覚えている。

23歳の若き母にセクハラもした。

家族全員で顔を見に行かなかったら、祖父の近所の人に散々家族のありもしないことを交えた愚痴を撒かれた。

 

祖父に良い思い出がないわけでは無い。

ブランコを作ってくれたり、ビニールプールを膨らましてくれたこともあった。

ただ、そばに祖父はいなかった。作られたブランコに一人座って家族を待っていた。ビニールプールで一人家族を待っていた。

祖父母の家に預けられることが苦痛で苦痛で堪らなかった。いつ怒られるのかとビクビクしていた。

 

祖母は、70代で癌で亡くなった。2年といわれた命は5年以上もった。だが、その5年は祖母にとって酷く辛いものだった。

入院して、個室ではない場所にも関わらず、祖父は差別用語で祖母を罵った。病気になったことを責めた。己の食事の心配ばかりしていた。

見舞いに行った時祖母はずっと辛い、ごめんなさい、もう嫌、そんな言葉ばかり言っていた。

祖母との思い出もほとんどない。祖母はいつも暗い顔だったように思う。あまり私たちとも話してくれなかった。祖父の顔色ばかり伺っていた。

 

祖父は、横暴な人で、哀れな人だ。

祖母が亡くなるまで、私たち家族は毎月片道1時間以上かけて見舞いに行った。その合間に、祖父の手伝いにも行った。母は車を出して祖父を送り迎えもしていた。

だが、その頃、私たち家族にも辛いことがあった。父が仕事でうつ病になり、休職してしまった。毎日朝になると叫んで唸っていた。祖父にうつ病のことを言っても聞いてもらえず、逆に父を追い詰める言葉を何度も吐いた。父は今も抗うつ剤を飲み続けている。

父が休職となると、当然の如くお金が足りない。

母は足が悪く立ち仕事ができない。だが、地元は田舎の為、立ち仕事以外の事務職は経験者しか雇わない。母は必死に内職をしたが、内職のお金だけでは賄えない。

結局、借金は増えていっていた。然し、その借金を知っていたのは父だけだった。借金のことが発覚したのは、去年の夏だ。

妹は父や家族の様子を見て、だんだんと不登校になった。自家中毒にもなった。今、妹はADHDの診断をされた。カウンセラーと服薬もしている。

母はそんな父と妹、それから私を懸命に支えてくれていた。完璧な母であろうとした。だが、それでも祖父に怒鳴られ続け、母はついに壊れてしまった。

祖母が亡くなった時、母は身長が160以上あるにも関わらず、40キロも無い程体重が落ちガリガリだった。

母は壊れた。その数年間は辛いものだった。うつ病にはならなかったが、家に悪霊がいると思い家には魔除けのグッズが散乱した。お祓いにも行った。謎のカルト的なものにも手を出した。通販にも依存してしまった。

 

祖父は、きっと悪い人では無い。

お年玉はくれたし、クリスマスには必ず二千円をくれた。

ただ、心が弱い人なだけで。

小さな子がお爺ちゃんお婆ちゃんと遊んでいると、羨ましく思ってしまう。家族でレジャーやバーベキューをしているのを見ると辛くなる。

私の学生時代に、家族と遊びに出かけた記憶は小学生の低学年までだ。妹なんかは、ほぼ覚えていないであろう。

毎週日曜に祖父の家に父は行かねばならなかった。行かなくては怒られた。

今では毎日通っている。そうしなければ、電話が来るのだ。

おかあさんの歌詞

 

未だ体調は安定せず。

でもどうにかしなくちゃいけなくて、色々と足掻いているこの頃。

 

今話題の「あたしおかあさんだから」という歌詞を読んで、ふと私の母のことを思った。

私の母は今も不眠症パニック障害に悩まされている。その原因は、母が「お母さん」だったからだ。

 

当時、私は何も知らない子供だった。

私の地元は給食制度が進んでおらず、小学生の頃からずっとお弁当だった。

お弁当が毎日用意されていることに何の違和感も感じなかった。

帰ればお菓子を作って待ってくれている母に何の違和感も感じなかった。

体操服袋やお弁当袋が手作りなことに何の違和感も感じなかった。

庭の花壇が綺麗に花で埋め尽くされ、自慢の可愛いお庭だったことに何の違和感も感じなかった。

 

母は、21歳で結婚し、23歳の時にはもう私を産んでいた。その後、妹が産まれて直ぐに父の地元、今住んでいる場所へと連れられた。

地元は田舎で、車がないと移動ができない。母はペーパードライバーだったが、必死に車に慣れようとした。

知り合いなんか周りには誰もいない、知らない土地。そこで、若い母は近所の人や性格の悪い祖父に嫌味やありもしない噂話までたてられた。近所に住む祖父は度々母を罵った。父は祖父が怖くて庇ってくれなかった。

 

それでも、毎朝早く起きてお弁当を用意して、私と妹を起こして学校へと連れ出し、毎日洗濯物を干して掃除機もかけて庭も整備して、縫い物だってして、お菓子も作ってくれた。母は、懸命に「お母さん」であろうとしたのだ。

 

母は、うまれつき足が悪い。あの頃は足が痛い、と口に出すことはあまりなかったように思う。言ってはいけないと思っていたのかもしれない。何故なら、言えば子供である私たちが心配するからだ。

 

そんな時、父がうつ病になり休職してしまった。母は足りない分を、給料が安く自分で車で取りに行ってまた倉庫に持っていくというなんとも不便すぎる内職で何とか賄おうと、毎日内職の箱を折ったり袋に詰めたりしていた。

(後にも言うが、母は足が悪い為立ち仕事はできなかった。だが、田舎のここに座り仕事は殆ど無い。事務のスキルもない。内職もその安く不便なものしか無かった。)

 

父がうつ病になって直ぐ、妹も体調を崩した。自家中毒になり、臭いが駄目だと家から飛び出して車に閉じこもる日もあった。学校にもなかなかいけず、不登校の日が続いた。

それでも母は妹を懸命に支え、学校の前まで一緒に行ってみたり送り迎えを毎日したりしていた。

当時中学生だった私は、そんな父と妹の姿に耐えられず、私自身も体調を崩す日が多くなった。自分の方に関してはあまり思い出せないが、母はやっぱり優しかった様に思う。

 

そんな日々の一方、父方の祖母が癌になった。余命2年と言われていた命は、5年程続いた様に思う。だが、その5年はあまりにも長く辛いものだった。

祖父に毎月見舞いに行けと言われ、私たちは片道1時間半の道のりを走り家族全員で見舞いに行った。祖母は行くたびにもう嫌だ痛いしんどいと泣きそうな声で言っていた様に思う。

そんな祖母に祖父は怒鳴り、差別用語で祖母を貶め、「俺の飯はどうなる」と己の心配ばかりしていた記憶がある。

そんな日々が何年も続いた。祖父は母にも怒鳴りの電話を入れた。見舞いに何故来ない、車を出せ、一人で見舞いに行け、……他にも何を言われたのかは、私は本人ではないから知らない。

だが、その電話がきっかけで、母は壊れてしまった。

 

今迄完璧であろうとした母はある日突然泣き崩れ、父に初めて大声で喚き訴えた。私は妹の耳を咄嗟に塞いだことを覚えている。自分がどんなに大変か。もう嫌だ。辛い。帰りたい。それは今まで言わなかった言葉。「お母さん」が言ってはいけない言葉。

それから母は「お母さん」を少しずつやめていった。お弁当は作らなくなり、洗濯物は干さなくなった。掃除機の音もしない。庭の花は枯れていたし、帰れば洗われていない食器が沢山あった。

中学生の私と小学生の妹は、それがどういう意味なのかはっきりわかっていなかった。ただ、母が疲れていること、足が痛いこと、しんどいことだけを理解していた。

 

父は仕事場を変え、薬を飲みながらも仕事に復帰した。祖母は長い闘病生活の末、亡くなった。私は高校生に上がり、妹は中学生になった。

これから何もかもが良くなるかと思ったが、家族の傷痕は思ったよりも深かった。

私は朝がうまく起きられず、母に送ってもらわないと学校に行けない日が多かった。母はしんどいと言いながらも、私を懸命に送ってくれて、いつも笑ってくれていた。

妹は小学生の頃の体調不良が治らず、教室ではない場所で勉強をしていた。だが、勉強もついて行けず、やはり不登校気味になっていった。

母は病院でパニック障がいと軽度な拒食症、睡眠障害を診断された。当時の母は痩せこけていたように思う。あの頃の写真はほとんど残っていない。

 

そうして、母は少しずつじわりと壊れていっていた。

「お母さん」であらなければ、と懸命になりすぎた。我慢しすぎたのだ。「お母さんだから」は、「お姉ちゃんだから」に似ている。"〜だから、こうしなければならない" と自分を責めてしまう。

私は隣県の大学に進学したが、うまく体調のコントロールができず単位ギリギリで半年を過ごした。中学生の頃一度だけ行った個人病院で、自律神経失調症及び軽鬱だと診断されたものが、治りきってなかったのだろうと今は思う。そして慣れない場所での初バイト先でも色々あり、結局私は駄目になってしまい休学をすることにした。その半年後、金銭面や体調面の都合で私は退学した。

 

帰って知ったのは、母がまだまだ壊れていっていたということだった。

母は家事を全くしなくなっていた。魔除けのグッズが大量に家にあった。通販で買ったもので家は溢れかえっていた。所謂通販依存に母はなっていた。

それまで母は欲しいものがあっても我慢していた。病院代のかかる私の為、妹の為にと何もかも我慢していた。

それが、こんな形で溢れてしまったのだ。

その後も母は「私はお母さんじゃない」と度々言うようになった。その言葉は、今でも私の中に深く残っている。

 

「お母さん」という一つの固定観念に縛られ続けた母は、結局壊れてしまった。

もしあの時、祖父から怒鳴られて直ぐに心のケアのために実家に戻っていれば。

もしあの時、母という仕事を放棄して病院に直ぐ行っていれば。

もしあの時、「お母さん」に拘らず、自分ができる範囲で自分の為に生きていられたなら。

 

私は偶に、私がいなければ母は自由に生きていけたのではないか、と思ってしまう。母は少し変わったところはあれど、元々人に好かれやすく明るい性格だ。きっと、他にもっと道は沢山あっただろう。

それが、「お母さんだから」によって壊されてしまったようにしか私には思えない。

 

母は今は少し落ち着いて、新しい仕事も始めようと頑張っている。いいや、必死になっている。まるで、取り戻せない時間を取り戻そうとしているかのように。

今は家庭の状況が良くない。父はまだ服薬中だし、借金はあるし、妹は高機能自閉症(ADHD)だと診断されたし、私はつい数ヶ月前に突然心が折れてしまった。

 

私も母も焦っている。

私は早く体調を戻さなきゃと思う一方で、全てを捨ててしまいたくなる。今後引きこもりの妹を養うことも、両親の老後を支えられる自信も、私にはない。自殺も何度も考えた。病院に行き、今は何とか落ち着いているが、またいつ死にたくなるのかわからない。

母は今も祖父に関わらないようにしている。祖父のことを思い出すだけで手が震えてしまう。そんな自分が嫌で、お金が大変だからと、自分を変えるための仕事を何とか見つけようとしている。だが先ほども言ったが、ここは田舎で、足が痛い母は長時間立つ仕事ができない。早くに結婚した為仕事のスキルもない。それは母にとって酷く高い壁なのだろうと私は思う。

 

口の悪い祖父は今だに健在で、毎週日曜は父に車を出してもらい買い物に行っている。それどころか、毎日仕事帰りに父が顔を出さないと怒りの電話がかかってくるのだ。私はもう正直呆れ返っている。そして、父を不憫に思う。

 

父が診断されたのはうつ病だけだったが、今彼を見ると妹の症状に似た動作がよく見られる。私が行っている病院とは違う個人病院に行っている為、真偽はわからないが、妹のADHDは遺伝性のものである可能性もあるという。だがそれは本人がまず気付くべきだと思うし、憶測でものを言うことは良くないことだ。だが、それでも私は、そのことに気付いてやっと心の中で私の家族の「理由」に整理をつけてしまった。

 

 

周りに自然と強制されたものは、いつか壊れてしまう。勿論朝5時に起きて爪を切って子供の為に我慢する「お母さん」がいても何もそれは問題ではない。

だが、それがそれこそが「お母さん」なのだと決めつけることはあまりにも不幸なことだと思う。

「お母さん」じゃないと周りから認められない、という風習はもう現代の日本社会には合わない。これが「お母さん」だと声高らかに言われることは大変不愉快であり、私のトラウマでもある。

私がもう少し理解のある子供であれば、「お母さん」に我慢なんてさせなかったのに。と、どうしても思ってしまうのだ。母が我慢の末に壊れてしまったなら、私にもその責任はある。私のせいで、母は壊れてしまったのかもしれない。そんな思いがふつふつと湧いて出てしまう。

 

私は今年で22歳になる。はやく自立したい反面、体調はなかなか思うようにいかない。一度壊れてしまったものは修復に時間がかかる。壊れるときは一瞬だ。たまったものが吹き出すように、爆発するように、土台から壊れてしまう。

だが、それでも私は生きようと今は思えている。数ヶ月前、1ヶ月前、死にたいと何度も願い何度も死のうとした。今だって気分はとても辛い。

気分転換が気分転換じゃなくなって行き、何をするのも億劫になる日も多々あった。

家族は大切だが、家族が私をゆるく縛り続けているのもわかっている。大切なものはいつだって重たい。

母も同じだったのだろう。「お母さん」として抱えたものは重すぎた。一人の人間として抱えれば、もう少し軽かったかもしれない。母は周りを頼らなかった。お母さんだから当たり前、と己を縛ってしまった。

 

お母さんだから、お姉ちゃんだから、お父さんだから、妹だから、男だから女だから……

周りや社会における「〜だから、しなくてはいけない(こうあるべきだ)」という一種の固執は度が過ぎれば身を滅ぼし周りも壊していく。

自身の心の中で「〜だから、こうしよう(こうした方が良い)」と考えるのが一番良いと私は思う。

自分のできる範囲で自分の決めたことをする。自分のできない範囲にあることは一人では絶対にしない。

辛いなら誰かを頼らなくてはいけない。吐き出さなくてはいけない。〜だから当たり前、だなんて誰が決めたのだろうか。当たり前なんて人によって違うに決まっている。得意不得意、精神の強さ、体力、健康面、好き嫌いも、全部違う個性があるのが人間なのだ。当てはめればそれに耐えられない人は壊れてしまうに決まっている。

 

最後に、「あたしおかあさんだから」という歌詞を書いた作家さんは、言葉足らずなのだろうと私は思う。

確かにこういう「お母さん」はいるし、それをこなすことを誇りに思っている人だって多々いる。そんな彼女たちへの応援ソングだと作家さんは言っていた。

だが、それをさも全てのお母さんにとって当たり前、と取れる言葉で歌詞を紡いだのが悪かった。

誰かにとっての当たり前は誰かにとっては当たり前ではない。寧ろ、とても辛いものかもしれないし、逆にとても楽なものかもしれない。

それを私は、今後も胸にしっかりと刻みつけておきたいと思う。

 

 

1月7日

つらい

起き上がるのがしんどくなってきた。

それでも朝5時半に必ず悪夢とともに目覚めて、目覚めたことに対して悲しんで、動悸と吐き気と共に天井を見つめ続けてしまう。

眠りたいのに朝が来てしまって眠れない。

ずっと考えてるのに、体調は良くならない。むしろ悪化している。原因のわからない体調不良も増えて来た。肌や胃にも不健康な証が見えて来た。

考えてるから体調が良くならないのだという。考えすぎだという。性格を直せと言われる。私の性格が悪いのだろうか。直せない。治す方法が見つからない。また考えてしまう。

早く治して家族を支えなきゃと思う気持ちが焦りばかり生んでいく。その反面、焦れば焦るほど全部どうでも良くなっていく。

全部どうでもいい。

生まれて来なきゃ良かった。

そう思えば思うほど自己嫌悪に陥る。あとどれだけ耐えればいいんだろう。人よりも耐えることが難しい。

あとどれだけ耐えればいいんだろう。

11月3日

 

 

薬をもらった。パキシルとコンスタンだ。

きいているのかわからない。

病院で聞かれたことに明るく答えてしまった。明るくしないと駄目な気がした。それが求められてると思った。うつ病じゃないらしい。病気の診断もされなかった。薬だけ出された。

中学の時も行ったけれど、あの先生は苦手だと感じる。言いたいことが言えない。私はどうすればよかったのだろうか?

しなくていいことを今日もしてしまった。余計なことだ。今更だ。何をしているんだろうか。

 

ごめんなさい。

 

10月27日

 

まだこうして文章を打てるのが幸せだと思う。

どうしていいかわからない。何ができるのかわからない。何故こんなにも私は弱いんだろう。

何故こんなにも私は駄目なんだろう。

世の中に必要とされたいわけではない。

生きることに許可なんていらない。

私は私らしく生きればいいと誰かは言う。

それでも私はここにいちゃいけない気がする。でもここにいなくちゃいけない気がする。

 

そろそろ潮時かもしれない。

疲れた。

 

これを書いてる時に妹からラインがきた。楽しげな母の写真だった。今日は母と妹が珍しく二人で出掛けていた。

泣いていたのに、写真を見て少しだけ愉快な気持ちになった。それからまた苦しくなった。

私は彼女たちの笑顔を壊そうとしているのだろうか?

自分がわからなくてまた泣いてしまう。

ごめんなさい。

10月17日

 

先日、私はどうしていいかわからなくて、包丁を手に持った。母は冷静だった。妹が私を落ち着かせてくれた。

包丁じゃ死なないよ、と母が言っていたのだけ覚えている。それ以外はわからない。気付けば職場に連絡を入れて、退職させてほしいと訴えていた。

私は仕事を1日も経たずに辞めた。それがどれだけ非常識なことだろうか。どれだけ馬鹿なことだろうか。

死のうと言う私を見た妹と母の気持ちはどんなものだったろうか。

私は本当に誰かに迷惑をかけるしかない存在だ。これ以上迷惑をかける前に、死んだ方がいいに決まっている。そう頭の中で私の中の私が決めつけてくる。

だが、家族が私を愛してくれているのもわかる。自立してほしいと望んでいるのもわかる。その反面、互いに依存している部分があるのもわかる。家族は皆精神的に病んでいるし、私だけが病院にも行かずヘラヘラと笑っているのだ。

私だけがこの家族の中で唯一健康だった。筈なのに。今でも病院には行っていない。行くお金がないのだ。だって、ようやっと決まった仕事も辞めてしまった。私は社会にはじき出されたのではない。社会を恐れて逃げてしまったのだ。逃げた先にあるのは、より一層辛い現実だけだと知っているのに。わかっているのに。私は酷く身勝手で、どうしようもない人間だと心から思う。

死にたいと思うのは病気なのだろうか。怖くて何もできなくて、何もしたくないと思うのは病気だろうか。検索すれば病気だと出てくる。それが嫌で携帯を閉じるのに、私はまた検索してしまう。私はどうして生きているのだろうか。私は何故生きなくてはいけないのか。

生きることは良いことだ。本当にそうだろうか?

もうずっと、死んだ方がいい、と頭の中で声がする。高校生の時からだ。気分が落ち込む度に、死んだ方がいい、と。死ななきゃ駄目だ、と。誰かの声がする。

学生の頃も、落ち込んだ日は一日中布団で寝ていた。涙を堪える為に、携帯でずっとネットを見ていた。明るい日は普通の高校生だった。寧ろ、テンションが高い日だってあったかもしれない。

社会人になると、そうもいかなくなる。落ち込んだ日も生きなくちゃいけない。そもそも、落ち込む暇なんて与えてくれない。それに対して体がついていかない。大学もそれが原因で辞めてしまった。お金の面もあったが、今はあの時よりもずっとずっと迷惑をかけている。

一度誰かに、死んだ方がいい、と、面と向かって言われたい。お前は屑で鈍間で何もできなくて最低でどうしようもない奴だ、と。そうすれば、やっぱりそうだったんだ! と、開き直って死ねる気がするのだ。

今の私を縛るのは、なんなのだろう。やはり家族だろうか。

 

私は生まれてきたことを心の底から悔やむ。産んでくれた両親には感謝している。

だが、こんなどうしようもない娘に育ってしまった自分を愛さないでほしい。

そしてどうか、私が死にたいと思うことを、心の底から、愚かだと思ってほしい。